◇槍ヶ岳◇ 最後の梯子を登った先に見た絶景

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この目の前の梯子を上れば登頂達成だ。見上げる梯子の角度は、ほぼ垂直といってもいい。梯子の上にはだだっ広い青空があるだけだ。最後に設置されたこの梯子の数は31段あると事前に読んでいた登山本に書いてあった。たったなのか、そんなになのか、登る前にその数を知ったときは前者であったが、今見上げると後者の気持ちだ。とてつもなく高く、長く見える。
槍ヶ岳、最終地点。その名前が現すように、山頂部分は槍のように鋭角になって、空に突き出している。その一際目立つ山容は登山者の多くを魅了してやまない。この尖がった部分が最後の一番の難所といえ、ごつごつした岩場が登る者を威圧し、覚悟を問うてくる。槍ヶ岳の標高は3,180m。日が昇る前にふもとを出発し、すでに7時間近く歩き続けてここまでやってきた。酸素の薄さが疲労をより強く感じさせるのか、一歩一歩の足取りは重たくなっていた。
目線を上に向けたまま、ここを登るのかと思うと、心臓が高鳴り緊張が増してきた。だが、登頂はもう目の前。あと少しの頑張りであそこに立つことができる。僕は「集中だ、集中」と口で唱え、大きく息を吐いて精神を集中させる。前を登る登山者との間隔が十分開いているのを確認して、梯子に手を伸ばす。梯子を掴むと手が汗ばんでいるのに気づいた。恐怖感はここに来て強まっていることは確かだ。一度離してズボンに手のひらをこすりつけた。
もう一度掴む。ひんやりとした冷たさと鉄のざらりとした感触が手のひらに伝わってきた。右手も同じように梯子を掴む。そして地面から左足を離して、静かに梯子にのせた。大きく息を吐く。3点支持を忘れない、絶対に下を向いてはいけない、その2つを自分に言い聞かせた。右足も梯子に乗せて、上に目を向け「行くぞ」と静かに声を出す。
左足をさらに一つ上にかけて、梯子をつかむ右手にぎゅっと力を込め、左手を離して上の段を掴む。しっかり掴んだのを確認し、次は右手を離して上に移動させる。そして右足を一つ上へ運んでいく。「そうだ、それでいい。そうやって少しづつ上にあがっていくだけだ。」息遣いは荒く、必要以上に力んでしまうが、慎重に手と足を繰り出していく。きっと今の自分の顔をみたら引きつった顔をしているに違いない。楽しむ余裕なんていうのはこの時点ではなくなっていた。
一段一段登っていくうちに、果たしてどれくらいの高さに今いるのか気になってしまい、自らに言い聞かしていたことを忘れて、思わず下を覗き見てしまった。見えたのは、落ちたら確実にただじゃすまないと思うほどの急降下した崖であった。見てしまったことを後悔する。心臓が速いペースで高鳴るのが、手に汗が滲んでくるのが分かる。下に落ちれば崖下に真っ逆さまだ。命の保障はない。
反射的に上を見る。前を行く登山者は登りきったようで、もう見えない。しかし、まだ半分の距離も満たしていないことを知る。「なんでこんなとこ登っているだよ」と、全く理不尽な言葉が内部で自分を責める。登ると決めたのは紛れもなく自分自身なのに。「もう見るんじゃないぞ、とにかく進まないといけない」と言い聞かす。早く登ってこの恐怖から解放されたい。僕はもう必死だ。呼吸が荒くなっているのを感じ、落ち着けようとするも身体は正直だ、恐怖は居座り続けている。
それでも、一段、一段上へと上がる動作に意識を合わせ、確実に梯子を掴んでいく。息は荒いまま、上だけを見て登る。登ることだけに集中し、全神経を研ぎ澄ます。こんなに集中を必要とするのは、死がすぐそこにあるからという状況に他ならない。少しでも気を抜いたら、それが命取りになってしまうのだ。
ようやく最後の梯子を掴み、窮屈な姿勢になりながらも力一杯身体をこするように引き上げ頂上に到着した。やっと着いたという安堵感。それとほぼ同時に嬉しさがこみ上げてきた。怖さが増していた分、解放感は大きかった。高所恐怖症であるとの自覚はあるが、まさかここまで恐怖を感じるとは思わなかった。
頂上部は思っていた以上に狭かった。少しの間、膝をついたまま呼吸を落ち着ける。恐怖を感じつつも、足に力を込めて立ち上がった。その名の通りここは槍の先端、周囲はスパッと切り落としたかのような崖になっている。足を踏み外したら確実に死ぬなと思った。視線を上げてみると、目の前に広がる光景は恐怖や疲労、擦りむいた手の甲の痛みなど、何もかもを吹き飛ばすには十分だった。360°眼下に広がる山々が、3000メートルを超える高さに自分がいることを物語っていた。視線の先には、断崖絶壁の尾根や巨大な爬虫類を思わせる刺々しい岩壁の連なり。僕はぐるりとアルプスの山々に囲まれていた。「ああ、ここは全てが剥き出しだ、剥き出しの大地が果てしなく広がっている」そう思った。僕はただ立ち竦む。人間が立ち入ることはできない山々の連なり。人間がどうすることもできない自然の秩序。人間に何らの幻想さえ抱かせない荘厳さ。どこを見ても手つかずの大地が見渡す限り広がっている。
僕が立つ頂には冷たい風が強く吹き続けている。ジャンパーがばたばたと音をはためかせ、周りに浮かぶ雲は千切れて、素早く形を変えていった。