◇筑波山◇ 霧に覆われた幻想世界と椿の花

東京は晴れた空の中を早朝に出発したのだが、予報に反して、バスが茨城県筑波山神社入口に到着して間もなく雨が降りだしてきた。雨対策をしてこなかった僕は、レインウエアも帽子も持ってきていない。雨が止みそうにない気配に、今日は諦めて帰るかどうしようかと土産屋の軒先で、上空の雲を見上げながら逡巡していた。
でもせっかくここまで来たのだし、行けるところまで行こうと思い、登山道へと向かうことに決めた。山に入っても雨は降り続き、足が泥濘に滑りそうになる。雨音は、時に大きくなったり、時に小さくなったりをくり返し、木の葉からは水滴が次から次と滴り、僕の髪の毛からも雨が滑り落ちてくる。だが、40分経ったくらいだろうか、上空に日が差してきて、雲が薄くなってきたのがわかると、雨足は徐々に弱まっていった。ああ、良かった。僕はこの先の不安材料がなくなったことに気持ちが途端に軽くなった。
しかし、雨足は止むと同時に霧を発生させ、森の奥に進むにつれて、霧は濃さを増していった。先の道は乳白色の霧に覆われて見通せない程だ。立ち込める霧が音を吸い込んでしまうのか、ここはあまりにも無音の世界で、葉や木の枝を踏む音が大きく感じられるほどにしんと静まり返っている。時間は正午近く、上空に目を向けると緑の葉の透き間からは日が差し込んできて、それが霧に柔らかく反射して光の柱を斜めに伸ばしていた。目を閉じて、大きく吸い込むと緑の濃いにおいが胸を満たす。湿っていて、ひんやりと冷たい空気だった。
その場で空気を味わうように立っていると、静寂のなかから、ぱき、ぱきと枝を踏む音が聞こえてきた。目をそちらに転じてみると、人影が霧の中からうっすらと現れた。誰かが下山してくるようだ。その人は僕の目の前まで下りてきて、「どこまでも霧に覆われてすごいね。今まで何回もここに登ったけど、初めてだよ、こんな深い霧を見たのは」と言った。
僕は「この世ではないみたいですよね」と言葉をかえした。「足元が見えづらいから滑らないように気をつけて、さっきそこでも転びかけたんだ」と言って、その場所を指差しながら彼は山を下りていった。ペットボトルの水を飲み、彼が下りていったほうをみると、彼の姿は霧の中に吸い込まれて、やがて完全に見えなくなった。
乳白色の霧の中を歩いていくと、僕と同じくらいの背丈の木の下に枯れ葉に混じって椿の花が一つ落下しているのを見つけた。それはまだ綺麗に咲いている状態で、ついさっき落ちたばかりのようだ。花びらを広げたその姿は、枯葉が周囲を覆い尽くす大地にあって、唯一強い生命力を放っているように見えた。
この椿の花は微生物に分解されて腐り、朽ちた葉とともに地中へと還って自然の一部になっていく。僕はある写真家が撮った自然界の生物を捉えた写真集を思い出した。その中の写真に、野生の中で生き絶えた鹿の死体が時間の経過とともにどう変化していくのかを捉えているものがあった。その鹿は小動物に集られて食われ、そして放置されて蛆が湧き、どんどん腐敗していった。見ている僕は死とはこうゆうものだということをまっすぐに突きつけられる思いがした。最後の写真ではほぼ骨だけが綺麗に残っていた。
僕はこの綺麗な花の朽ちていく姿をここでずっと見ていたいと思った。腐った匂いはどんな匂いなんだろう。この赤い色はいつまで赤のままなのだろう。どんな過程を経て無くなってしまうのだろうか。しかし、それを確認するのは不可能なこと。僕はその落ちたばかりの花を何枚か撮影して、その場を後にした。
ますます霧は濃くなってきて、手の輪郭さえも霞んで見えてきた。ここにいるのは僕一人で、先の道にも、後ろから来る人もいない。この乳白色の世界は果たして本当に現実なのかと疑ってしまうほどだ。先が見えない向こう側を進んだらもしかしたらどこかに迷いこんでしまうかもしれない、そんなことを思ったりするのは、きっとこの現実感の乏しさからだろう。誰か人が通ってくれればいいのに誰も来ないために、どこか足取りも不安げだ。谷の底は霧が覆い隠していて、深さがつかめない。滑らないように気をつけながら、足運びを慎重にして道を進んでいった。
頂上付近に差し掛かると、ここまでは雨雲は来なかったのか、露出した木の根が埋め尽くす道は濡れていなかった。僕は尾根沿いを歩き、進むペースをあげていく。巨大な岩石の後ろには青い空が広がっていた。
爽快な気分で頂上に到着し、遠くまで景色を望む。この山の標高は877mとそれほど高くはない。田んぼの中にある家々の形も分かるほどだ。向こうの民家の上空には灰色の雲が広がっていて、あの雲が午前中に、山に雨を降らせていたのかもしれないなと思った。十分な休憩時間を取り終え、賑やかな周りの登山者の声を聞きながら、下山を開始した。もう雨の心配はないだろう。暑い日差しを避け、木陰を見つけながら歩いて山を下っていく。
つい数時間前まで、深い霧に覆われた幻想的な世界の中を歩いてきたのだ。霧に包まれた世界を歩きながら、いつのまにか、僕はどこかに迷いこんだかもしれないという不安な気持ちになっていた。ここではないどこかと繋がっている境界があるとしたら、今日僕が通ってきたような場所なのかもしれない。

下山途中、あの落ちたばかりの椿の花を探してみたが、どこにも見つけることはできなかった。